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有田焼とは

有田焼(ありたやき)とは、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器のことです。

17世紀初頭、朝鮮人陶工・李参平らによって泉山で陶石が発見され、日本で初めて磁器が焼かれました。当時は、その積み出しが伊万里港からなされていたので、「伊万里(いまり)」とも呼ばれます。

有田焼の文様の様式


江戸時代の有田焼の作品は製造時期、様式などにより、「初期伊万里様式」、「金襴手(きんらんで)様式」、「柿右衛門様式」などに大別されます。また、これらとは違う系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり、鍋島藩の御用窯で作られたものを「鍋島様式」、皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいます。江戸時代後期に国内の各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていました。

初期伊万里様式


有田焼が始まる1610年代から1650年ごろまでに作られたものは初期伊万里といわれ、器が厚く、染付という呉須(藍色の下絵の絵の具)のみで釉薬がとろりとして絵付けが荒いのが特徴です。
有田で上絵付けが始まったのは1647年。初代酒井田柿右衛門が成功したとされています。それまで染付の単色の世界から、多彩色による表現は、当時画期的なものでした。

1650年代からは、有田焼はオランダの東インド会社(略称 VOC)によりヨーロッパの国々に輸出されはじめます。ヨーロッパに渡った有田焼は「IMARI」と呼ばれ、豪華な金襴手の品々は当時、純金と同じ価値で取引されていました。ヨーロッパの王侯貴族の中には熱狂的なコレクターが非常に多かったと言われています。

柿右衛門様式


1670年代から1690年代にかけて流行した様式に「柿右衛門様式」とよばれるものがあります。赤や黒で細く輪郭を描いた後、赤、緑、黄で着色された文様が特徴で、濁手という乳白色の素地に、余白を生かした絵画的な構図の作品となっています。
「柿右衛門様式」は、初代から現代まで続いているように思われがちですが、酒井田家でいえば4代、5代のころで、江戸時代の一時期に流行した様式です。「柿右衛門様式」の作品はヨーロッパに数多く輸出され、ドイツのマイセン窯やフランスのシャンティイ窯などで模倣されました。その繊細で優美な作風がヨーロッパの王侯貴族を魅了しました。

金襴手様式


「金襴手様式」様式は、江戸時代の元禄期(1688~1704)に現れ、現代にも引き継がれている様式です。濃い染付に赤や金の絵の具を贅沢に使って、花文様などを器面いっぱいに描き込んだこの様式は、経済的に豊であった元禄時代の気風を反映したものと考えられています。全体的に装飾効果が高く、輸送されたヨーロッパで好まれ、現在でも大型の壷など多くの作品が、世界各地の博物館や城を飾っています。

幕末から明治の有田焼


幕末の有田は慢性的な不況が続いていました。1828年(文政11年)には大火に見舞われ、美濃や瀬戸で磁器の生産が盛んになり、肥前の磁器産業の独自性が揺らぎはじめていました。貿易は18世紀前半から衰退していましたが、1841年(天保12年)に有田の豪商久富与次兵衛が一手販売の権利を獲得して再開されました。久富は製品に「蔵春亭三保造」という銘を入れました。自社ブランド名を有田の製品に記した最初のものです。
幕末における久富らによる独占的な海外輸出は、他の商人や窯焼きたちの反感を買うことになります。また赤絵屋業は16軒に定められていましたが、これについても拡充の要望が強く、貿易は深川栄左衛門、平林伊平など新たに9人が許可されます。明治4年の廃藩置県によって長い歴史を持つ皿山代官所が閉鎖され、皿山の陶業は代官所による窯焼業や赤絵屋業の許可制がなくなり、営業が自由になりました。

ワグネルによる技術革新


ドイツの化学者、ゴットフリード・ワグネルは、1870年(明治3年)、西洋の知識を授けるために有田に招かれます。有田に滞在したのはわずかに4ヶ月でしたが、その間に有田の陶工たちは、初めてふれる西洋の窯業知識に多くのことを学びました。その1つが石炭窯です。それまでは山の斜面に築かれ、薪で焚かれる登り窯で焼成されていましたが、平地にそれも石炭で焼くという日本で初めての試みが、有田の地でなされました。これがきっかけとなり、明治後半からは日本の各地で石炭窯が広がっていきます。
ワグネルはまた、絵の具の改良にも貢献しました。それまで有田焼に見られる藍色の文様は、呉須(ごす)と呼ばれる中国の天然鉱物を使っていましたが、工業的に製造されたコバルトという絵具の使用法を教えました。これを用いれば呉須よりも鮮やかな色が得られ、また自由に濃淡が調節できました。しかもはるかに安い絵具でしたので、ワグネルが教えてから数年で全国に広まりました。

万博で名声を得た有田焼


明治期の有田焼は、ヨーロッパを中心に盛んに開催された万国博覧会で名声を得ます。
1867年(慶応3年)のパリの万博には、佐賀藩は幕府の要請で薩摩藩とともに参加。それ以来、ジャポニスムの流行はパリからヨーロッパ各地へと伝播し、出品された作品も大好評で、政府を含めて対応に追われました。そこで、総合商社機能を持つ、わが国最初の貿易商社・起立工商会社が誕生しました。
その後開催された各地の万博でも、香蘭社、精磁会社、深川製磁などが金賞・金牌などを獲得するなど、有田焼は各国の人々を魅了しました。

大正時代以降の有田焼


大正時代には、工業用製品や碍子の需要が増大し、この分野の生産が伸びます。また、1896年(明治29年)から行われている陶磁器品評会の協賛行事として1916年(大正5年)に始まった「蔵ざらえ」は、有田陶器市として発展し、現在に至っています。

昭和に入ると、生産規模の大きな愛知県の瀬戸や岐阜県の美濃地域の陶磁業に価格面で押され、磁器生産も一旦縮小しますが、その後昭和30年代から40年代には生産量・売上共に大きく躍進します。

1976年(昭和51年)に柿右衛門製陶技術保存会および、色鍋技術保存会が国の無形重要文化財保持団体として認定され、さらに1980年(昭和55年)には天狗谷窯跡、山辺田窯跡、泉山磁石場が国の史跡に、また1991年(平成3年)には上有田地区の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるなど、有田焼をとりまく文化が町内外の人々に認められてきました。

現在の有田は、食器の生産が中心であることに変わりはありませんが、タイル、碍子、耐酸磁器、ファインセラミックス製品など工業製品の製造も行われており、周辺の伊万里、波佐見、三川内などの地区も含めた肥前窯業圏の中核をなす存在であり続けています。