江越礼太

子どもたちに学問と技術を!

江越礼太えごしれいた

元小城藩士で、有田の教育者。明治14(1881)年、国内初の陶器工芸学校(勉脩学舎)を設立し、子どもたちの実業教育に尽力。実業教育の草分けであり、有田教育の父と言われている。


文政10(1827)年〜明治25(1892)年 65歳

白川学校開校

白川学校開校

江越礼太(以下江越と略)の姿は、有田小学校にある肖像画で町の方にはおなじみです。
有田町の近代教育の歴史は明治4(1871)年に開かれた白川学校に遡ります。これは、わが国最初の近代教育制度・学制が公布される1年前に当たります。明治5(1872)年の学制公布によって校名を白川小学校に改めます。
もともと有田の人との交流があった江越の教育者としての資質や理想を知り得た有田の人々は、江越を校長として招聘しました。
江越は、白川小学校の児童にも製陶の実技教育を実施しました。後に開校する勉脩学舎は、その思いを一段と高めたものと言えます。

勉脩学舎開校

勉脩学舎開校

明治14(1881)年には、わが国最初の陶器工芸学校である勉脩学舎が白川に開校します。これは、白川小学校の経営を一任された江越礼太の働きによるものです。
設立の趣旨には次のような言葉があったといいます。
「かつては欧州の手本とされた有田の製陶技術だが、今やそのレベルは落ちた。陶器工芸学校を創設して年少子弟を教育し、大勢の名工を輩出させることが緊急の課題である。それに自信過剰を改め、西洋陶芸の長所にも学ぶべきだ。それによって工芸力を増し、やがて訪れる国際貿易の時代に対処するべきである。」
文部省が実業補修学校の規定を制定したのは明治27(1894)年。実業学校令を公布したのは明治32(1899)年。江越の着想がいかに時代に先がけたものであったかが分かります。また、それまでの伝統によりかかっている有田の実情に危機感を覚えた江越の建学精神の高さが伺えます。

江越の精神を受け継いで

江越の精神を受け継いで

江越は亡くなった後、白川墓地に葬られ、現在も有田小学校を見守っています。
勉脩学舎が廃校になった後、有田徒弟学校に引き継がれ、佐賀県工業学校有田分校になりました。それを明治36(1903)年に有田工業学校に昇格させたのが、当時の校長である納富介次郎です。これが現在の有田工業高校へと繋がっています。納富は海外で製陶技法を学んで帰国後、日本国内の工業学校の校長を歴任しています。
昭和60(1985)年には佐賀県立有田窯業大学校、平成28(2016)年に佐賀大学の芸術地域デザイン学部に統合されました。このように現在も勉脩学舎の精神が残り、有田焼産業を支えています。